心的静けさを会得したい
今日は久しぶりに静かな朝だった。
起床して、音楽も動画もつけず朝食をとり、簡単に身支度を整える。
家を出ると、夏の様相が体を包む。徒歩で目的地へ。山登り用の花柄の帽子を日除けにかぶり、坂を狭い歩幅で降りていく。その間も、イヤフォンを首にかけさえもしなかった。
音楽もラジオも、耳が必要としない朝。音を求めない、心的にしんとした朝。それが自分にとっての静かな朝だ。
朝の心的静けさが昼までもつか、夜までもつか、それは日によって違うが、そんな静かな時間が可能限り長く、願わくば毎日続けばよいと思っている。
以前のブログで「ながらをやめた」という話をした。
「ながら歩き」や「ながら食べ」といったながら行動を意識的にやめ、自分の過去や感情に丁寧に向き合おう、という主旨の記事だ。
これを書いたのが4月。
3ヶ月以上経った今、ながら行動は復活してきている。
どんな時にながら行動をとるのか、自分なりの答えを述べる。
ズバリ、落ち着かないときだ。
落ち着かないとき、脳の焦点は周囲の環境ではなく、自己の内面へと向かう。
自己肯定感がゆるゆると降下し、それに伴い承認欲求が暴走し始める。
悪化すると己の至らなさを責めたて、自身の可能性の芽を摘み取ることで、「できない」自分を肯定しようとする。
脳が己自身を傷つけようと、大なり小なり声をあげ続けるから、そのノイズをかき消すために外部からの音を求める。そして音楽やラジオを聞くのだ。
機嫌がよいときも油断はできない。さらにテンションを上げようと音を流すと、大半の場合、意欲が空回りしがちだ。
活力のエンジンをふかすことで、自身でも歯止めが聞かないほど脳の回転が速まる。結果、頑張りすぎて疲労感を感じ、自己肯定感が下がり、落ち込む。
「ストレスを感じる理由の大半は、疲労だよ」とアドバイスを受けたことがある。それなのだ。
音を遮断して生活したいとは言わないが、程よい距離感を保って、心的に静かでありたい。どうしたらそんなバランスを取れた暮らしができるんだろうか。答えはまだ出ていない。
偶然訪れた静かな朝を、ありがたやと享受することしかできぬ。
心的静けさを会得して、もう少し周囲の環境に興味をもちたい。それか思いきり開き直りたい。
そんなことに悶々と思いを馳せる、夏の夜なのである。
蛇足だが念の為に述べておく。これはあくまで自分の場合だ。
音楽、ラジオ、音で心救われる人もたくさんいるだろう。その方々を否定する気はないということだけ、添えておきたい。