嫌われる勇気を再読しました
嫌われる勇気を何年かぶりに読み返した。
前に読んだのは大学時代だろうか、劇団時代だろうか。当時流行っていたため、書店で自ら求め、読んだ1冊だったように思う。調べてみたら2013年発行だった。今から8年前なので、じゃあ劇団時代だな。
劇団時代といえば精神的に最も混沌としていた時分である。本の内容もほとんで覚えていないし、「言ってることはわかるようなわからんような。結局どうすればいいんじゃい」と感じて、結局手放した1冊だったはずだ。
1度お別れした本と再会した理由は極めて単純。旦那が所持していたのだ。旦那自身は購入しただけで、中に目を通してはいないという。そんなことあるんだ。まぁ、あるか。空き時間にスマホの充電を節約するため何の気なしに読み始めたが、意外と面白くて、読み返し読み返ししながら読破した。
内容をすっかり忘れていたため新鮮に読めたというのもあるが、劇団時代のカオスな心身を経て、30代を迎えた今だからこそ納得できるという箇所がいくつかあった。
まず「他者の課題と自身の課題とを分離する」と語られている点。
自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。
まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう。そして課題の分離をしましょう。どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷製に線引きするのです。
そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一遍させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になります。
そして「今ここに集中する」という箇所。今現在のわたし自身の人生の指針と通ずるところがあり、共感できた。
われわれはもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべきなのです。過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣に生きておらず、うすらぼんやりとした光の中に生きている証です。
人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。
この2点すら劇団時代のわたしに響かなかったのは何故だろう、と思い返す。
恐らくあまりにも意志薄弱で、自信がなかったのが1つ。もう1つは想像力の欠如。文脈を自身の経験とすり合わせることが出来なかったのだろう。
当時のわたしは「わかりやすい指針」に飢えていた。
この人に従っていたら大丈夫。
この人と一緒にいたら何とかなる。
言われたことを熱心に行っていれば、必ず道は開ける。
己を寄りかからせてくれる、安直な大樹さえ見つけたら、わたしはもっと幸せになれる。こんなに苦しいのは自分が大樹の言うことを聞かず、頑張りが足りないからだ。
当時は本気でそう思っていた。
誰かを妄信しすぎて怖い、と仲間から言われたこともある。
人生最大の金銭的失敗も同じ理由が発端だ。どれくらい失敗したかは言わないでおくけど。苦笑いしか出ないから。
まあそんなわけで、「嫌われる勇気」は当時のわたしにとって、「寄りかかれる大樹」となりえなかったから、記憶に残っていないのだろう。
時間軸を今に戻す。
上記2点以外でも興味深い点はいくつもあったが、理解が追い付かない箇所も多い。「共同体感覚」は腑に落ちていない。我が人生は自己受容の段階で、他者貢献のレベルにまでは到達していないのかもしれぬ。
あーだこーだと考えて生活しているうちに脳内が混乱してきて、「今自分が感じている事柄は、アドラー的に正しいのか、正しくないのか」「教え的に正しい事を考えたい」とか考え始めてしまった。
いかんいかん。この混乱っぷりは大樹への妄信に似ているぞと。落ち着け落ち着けと思い直し、「嫌われる勇気」について語られた別のブログを拝読。心の針を+にも-にも振れない状態に戻してみた。
この記事ではトラウマについて触れ、アドラー心理学は人を選ぶと指摘している。
トラウマについて、わたしなんぞは語る口を持たないが、「嫌われる勇気」の教えが、唯一無二の正解ではないということはようやく腑に落ちた。混乱状態脱出。
1つでも2つでも、自らの生活に役立ちそうな事柄を持ち帰り、日々実践すればよいか。全てにおいて正解を出してくれる人も、本も存在しない。自分の体に効きそうな薬を選ぶのは結局自分なのだな、と理解。
ちなみに、上記ブログで知った渡辺和子さんの著書「置かれた場所で咲きなさい」をTSUTAYA BOOK STOREで衝動買いしてしまった。
立ち読みで泣きそうになったので、「ウツぬけ」同様、心身が追い込まれた時に効く良薬になりそうである。これからゆっくり読んで行こうと思う。
にしても、本は時間をおいて再読すると、新たな発見があるのでよい。「嫌われる勇気」も時間をおけば熟成されて、感じ方が変わるかもしれない。共同体感覚も急に理解できる日が来るのかも。また読もう。