願いの程度を知るのは、己に優しくなるということ
ここ最近無理をしすぎたようで、心と体が疲弊していた。
1日の終わりに不機嫌になることが多く、周りにも旦那にも迷惑をかけたと思う。
何とかせねばと思い返し、日々の行動を振り返った。
大体の不機嫌は体の疲れからくることが多い。
何故疲れるのか。確かにここ1~2週間は妙に予定を詰めすぎた。
元々の仕事や家事に加え、自己肯定感を上げる活動を行っているためだろう。
ここ1週間の目標を定め達成していく活動を、1か月ほど続けてきた。
幸いに今までの全ての目標はクリアしてきたが、目標に捧げる時間が負担になりつつあった。
初週は6つだった目標が、先週は9つに増加。スケジューリングが不得意で、休む暇がなくなっていた。
近頃冬の気配が色濃くなり、雨も降り続いた。低気圧とホルモンバランスと疲労で乱れ落ち込む精神。先週のノルマを達成した時点で、これからの目標設定を見直してみた。
目標には「長年どうしてもやりたかった事柄」を設定する必要がある。
今まで目標に設定していた項目は、本当に今の自分がやりたいことなのか考える。
難しい話だ。欲望に素直になる、丸裸の己を認めなければならない。
世間的に立派に思えること、誰かから称賛されるか否かは問題ではなく、今のわたし自身がやりたい「程度」を見極める必要がある。
たとえば「美味しいステーキを食べたい」という願いがあったとする。
そこから己を深掘りして、「どんな」ステーキを、「どのように」食べたいのか、考えなければならない。
一般的に他者から評価されそうな形は
「ドレスコードがありそうな高級ステーキ店で、最高級のシェフの手で調理された最高等級の肉を、熱々のうちに優雅に食す」
といったものだろう。
しかし果たして、「自身の内面」は高級ステーキ店の肉を求めているのか。
「地元の美味しいステーキ店で、家族4人でちょっといい肉を食べたい」かもしれない。
「ステーキの本場アメリカで、ワイルドな厚切りステーキを思いっきり頬張りたい」のかもしれない。
「スーパーで買った和牛をバターで美味しく調理して、旦那と一緒に食べたい」という人もいるだろう。
願いに程度の差こそあれ、優劣は存在しない。
わたしのように、誰かからの評価が第一と思い込んできた人間は、その辺りを理解するのに時間がかかった。
何十年と生きてきてようやく、わたしは自分という人間と対話が出来た気がする。
対話の結果、今週の目標は5つにおさめることができた。
その厳選された5つは、今までの生活で周期的に「これ…そろそろやりたいなぁ」と思い返す事柄であった。
今まで、大きな夢を見なければならないと思っていた。
誰かの期待を背負って、人生を賭して叶えねばならないと思っていた。
が、そろそろ誰かのためではなく、自分の欲望に忠実に生きようと思えた。
視界が開いたような、肩の荷が下りたような。とりあえず、少し楽な心地がする。
今朝マインドフルネスの瞑想を試したところ、びっくりするくらい自分に優しくなっていて、自然と笑顔が浮かんで、涙がちょい出た。
自己肯定感の活動を続けてきた成果が、少しずつ芽を出してきたようで嬉しく思う。
引き続き、今週も目標達成頑張ります。