書きたい分だけ書くブログ

冗長な戯言(たわごと)をつらつらと

余裕がないからこそ、見えてきたこと

ここ最近色々と問題を抱え、悩みながら過ごしていた。余暇が出来た一方で心の余裕が消え、普段やっていた物事に対してのモチベーションが一気に無くなってしまった。

最近モデリングソフトblenderにはまりつつあった。チュートリアル動画で勉強に励んでいたが、問題が勃発して以来、興味の糸がぷっつりと切れた。

ゲームを遊ぶこと自体しんどくなった。空いた時間で、英語やドイツ語の勉強もできただろうが、一切やる気がわかない。放っておくと1日中布団の中で縮こまっていそうな状態だ。

 

これは、よくないぞ。

状況を打破しようと、家にあった自己啓発書「道は開ける」と、今回の期間に買い求めた森田療法の本の内容を頭の中で繰り返した。

 

一度にひとつずつ、ゆっくり淡々とこなしていくことを忘れてしまえば、私たちの心身の構造もまた、砂時計と同じように壊れてしまう。一度に砂をひと粒だけ、一度に仕事をひとつだけ。

デール・カーネギー「道は開ける」より)

 

物事に悩む人は「できないこと」を何とかしようとして悪戦苦闘し、「できること」がおろそかになっているのです。(略)

「できないこと」をありのままに受け入れて、「できること」に注目し、それに取り組み、没頭することが問題の解決の鍵となるのです。

(北西憲二「はじめての森田療法」より)

 

己の力でどうしようもならないこと、例えば未来の顛末や、他者の意志を変えることはできない。焦点を当てるべきは、わたしが今できること、と強く念じた。そして余計な感情に囚われぬよう、とにかく体を疲れさせようと決めた。

 

 

心の余裕は全くない。けれど心はあるがままに放っておき、わたしは家事をした。

せこせこと手先に集中している間は、脳内妄想が薄くなることに気づいた。

 

押し入れにしまい込んでいたクロスバイクを引っ張り出し、太陽がさんさんと降り注ぐ中、東目屋へ遠出をした。

岩木山神社へドライブし、問題解決の祈願をし、ついでに自然散策をした。

りんご公園に立ち寄り、りんご畑や生い茂る野草をぼんやり眺めながら、足をのばしてベンチに座り込んだりした。

大自然に身を投じるのは、美しい景色を堪能できる反面、どこか命の危険を感じる行為だ。自然の壮大さと己の矮小さを比べると、今抱えている問題がとてもちっぽけに感じた。ふつふつと絶望感が浮き上がってくる瞬間も確かにあるが、太陽の熱や、川の飛沫が悲壮感をかき消してくれたりする。心というものは、とても移ろいやすいものだと学んだ。

 

TVのバラエティ番組を次々と見たりした。

こんな状況で?とも思ったが、意外とリラックスして笑えた。

バラエティ以外に、お昼の情報番組やドラマなど、普段ならBGM程度にしか感じない番組にやけに癒された。人がはしゃいだり、笑ったり、前向きに生きようとしている姿に、勇気をもらえた。

 

日記をひたすら書いた。

日記に関しては普段と変わらぬ行動だが、文章量がやや増えた。室内でも屋外でも、感情がこぼれそうになったとき、いつでも日記が受け止めてくれた。

 

 

 

その後、浮き沈みはありながらも、何だかんだと行動している間に、問題は解決した。心の余裕が戻ってきたことで、何かに挑戦してみようというモチベーションも体内に戻ってきた。

それはとても喜ばしいことだ。しかし、余裕がないときにとった行動こそ、わたしという人間のエネルギーの源になっているのではないかと思い返す。余裕がないからこそ「できること」「やりたいこと」に着手できたのではないか。

「将来のため」とか「誰かのため」とか、耳ざわりのいいモットーを掲げて、行動指針を決めがちなわたし。すぐに「〇〇すべき」の考えに陥るわたし。

本当に自分にとって大切なことを、義務感で霞めないようにしたいと、切に思う。

 

 

不安を感じすぎてしまう、あなたへ。なかなかいい本です↓


道は開ける文庫版 [ デール・カーネギー ]