書きたい分だけ書くブログ

冗長な戯言(たわごと)をつらつらと

私の世界の見方。

振り切れた。前回の日記から心持ちが変わった気がする。仕事や人生の不安からのストレスが半端なくて、上手く処理できなくてモヤモヤとしていたけど。何かふっきれたような、どうでもよくなったような、一旦諦観の先に来たような心地がしている。

 

一昨日。精神力40%の状況で仕事に行った。鬱々としている。誰にも気遣いなんてできない、人間関係を良好に保つなんてできない、きつい。そう思いながらも、仕事を始めたら始めたでそれなりに同僚と会話はするし、接客も問題なくできた。「ここではこう振る舞う」のが、癖として染み付いているんだろう。社交性を発揮する自分に驚いた。

が、今までとは何かが違う心持ちを感じた。人が皆ジャガイモに見える。自分は自分、人は人、の境界線が見える。「内面が荒んだ自分」と「目の前のお客様に丁寧に接客する自分」は同時に存在できるのだと理解した。

 

自分はおそらく、行動には心が伴っていないといけないと考えていた。感情を動かさなくては相手に失礼だ。相手に感謝を、礼を、気遣いを。そして内面もまた、行動に伴い感謝を、礼を、気遣いを。

内面と行動に一貫性を重要視する癖があるのは何故だろうと思い返すと、小学生の頃、正門前で待ち構えていたキリスト教の方に見せられた紙芝居を思い出した。過去の出来事と内混ぜになって記憶内容はぐちゃぐちゃだが、天国の住人たちは思っていることが、口に出さずとも相手に伝わる。だからどんなときでも感謝の気持ちを持っていないと地獄に落ちる、みたいな話だった。真っ赤に燃え盛る地獄の業火に焼かれる人々が描かれた醜悪な紙芝居。幼心に恐ろしかった。ゆえに、心の中に浮かんでは消えるネガティブな感情は、地獄への片道切符だと思って忌み嫌っていた。

 

そういえば演劇をやっていた頃、自分は演技がど下手くそだった。台詞はただ文字面を追うだけではいけない。内面から浮かび上がった感情を言葉にするのが大切だと教わったが、わたしは浮かび上がる感情の、「喜怒哀楽」の大まかな部分すら拾うことができずにいた。拾うことができないというのは、理解ができないということだ。人間の感情は複雑だ。嬉しいと言って内面は悲しんでいる、それが文字情報では理解できるが、自らの体で体感することができなかった。内面と行動の一貫性を主義として生きてきたのだから、当然かもしれない。

 

一昨日、精神力が落ちたことで、内面と行動を一致させるのが困難になった結果、それぞれの世界が分離された。内面はわたしの自由だ。相対する貴方の内面も自由だ。外界は取り繕うけど、あとは自由でいいじゃないか。全員に徹頭徹尾親切なんてできやしないんだ。肩の荷を大きく振りかぶって、遠い彼方にぶん投げってやったような、呼吸のしやすさを感じた。

 

それが理解できたからか何なのか、そこからの過程はよくわからないけれど、外側で起きている事柄に期待しすぎなくなったのを感じる。自分の感情のケツ持ちは誰がしてくれるわけでもない、結局最後は自分しかいない。それが実感として体に落ちてきたというか。ストンと納得できたよう感じ。

 

 

自分は心の拠り所を見つけては頼ってばかりいた。縋ってばかりいた。誰かがいてくれるから、自分は成り立っていて。支えになってくれる人がいないと、立っていられないんじゃないかと不安で仕方なかった。今の幸せを脅かす存在や出来事が起こると、足元がグラグラするのを感じて、すごく恐ろしかった。

ここ数年はコロナ、円高。そしてここ1ヶ月は人間関係のストレス負荷が高かった。わたしには何ができるんだ。何かしなくちゃいけないんじゃないか、でも自分だって頑張っている、誰かわたしを認めてくれ、こんなに苦しい自分を肯定してくれと、もがもがと足掻いていた。

外側から訪れる何か。大金か、大仕事か、めちゃくちゃ面白い出来事か、わたしを変えてくれる・没頭できる趣味か、とびきりのサプライズか、神様の襲来か、そんなもので自分は大きく変われると思っていたけど。

私の世界の見方は、急角度で変化した。見えている世界は変わらないのに、悲しいほど、今の見方は呼吸が楽だ。