書きたい分だけ書くブログ

冗長な戯言(たわごと)をつらつらと

飽き性と忘れっぽさと図太さと

久しぶりにブログを書きたくなってはてなブログに帰ってきた。狂気山脈の映画のクラウドファンディングの影響か、知らぬ間にたくさんの方が記事にアクセスしてくれたらしく、嬉しい。

 

映画のクラウドファンディングは終了したので、公式サイトをぜひチェックしてみてどうぞ。その頂はきっと、狂気無くして至れぬ場所。↓↓↓

nakedpeak.jp

 

2021年の記事なのに目に留めていただいて感謝↓↓↓

clton.hatenablog.jp

 

前回の投稿が2022年12月。それから半年以上、文章を書く気が起きなかった。思いつく理由は3つ。前記事があまりにも長文で、燃え尽き症候群になったのが1つ。文章欲求が薄くなったのが1つ。書きたい記事を書いても、アクセスには反映されない現実が1つ。

 

燃え尽き症候群の元となった記事はこちら↓↓↓

clton.hatenablog.jp

 

書けなくなったことで悩みはした。もう2度と「ブログをしたい」と思えなかったらどうしよう、そんな自分に価値などないのではと大袈裟に思ったりなどした。何せ、長年一貫した行動が取れる人間性に、わたしは無闇に憧れている。定期投稿はカッコいい。半年の空白期間があるにもかかわず、「またはてなブログに戻ってきました〜」とヘラヘラするのは、厚顔無恥にも程があると内心思っていたのだ。(念の為に付け加えておくが、同じ状況の他者に対し「厚顔無恥だ!」とのたまうつもりは決してない。あくまで自分自身に対しそう考え、内面を自傷する癖があるという話だ)

 

なので、ブログから離れて1ヶ月程は悶々としていたが、半年もたつと、まあ離れたら離れたでいいか、なんてカラッと考えるようになった。いい意味でブログとの心的距離が空いたのかもしれない。新しい趣味も見つかった。その新しい趣味に食傷気味になってきたところで、枯れ果てたと思っていた文章欲が湧き上がるのを感じ、今に至る。

 

わたしが飽きっぽい人間なのか、人間とは飽きっぽいものなのか。どちらなのだろう。飽きについて、Q&AサイトQuoraで調べるとこんなページを見つけた。飽きの感情は、狩猟時代の頃から祖先より脈々と受け継がれてきたものらしい。興味深い内容を引用する。

 

「飽きる」という現象が人間に組み込まれている理由はなんでしょうか?「生き残る」上で「飽きる」が必要なのでしょうか?他の動物も「飽きる」のでしょうか? - Quora

 

遊びの楽しいにも飽きてしまう問題は、本来遊びなど存在せず、楽しいとは何かを獲得したり、楽な状態であったりするときに得られる感情です

つまり人間が得をする行動を促すのが楽しいという感情でしょうが、何度も同じ遊び、つまり同じものを獲得してもあまり意味がありません

それよりも適度に飽きて、いろんなものを獲得するほうが生きる上で役に立つかと思います

 

以前とは異なる報酬(刺激)が得られるから「楽」の感情を感じる、ということだろうか。そのご褒美も、手をこまねいているだけではすぐに陳腐化する。りんごの木からはりんごしか取れない。前より大きなりんごを作るだとか、誰かと協力作業してみるとか、何倍も楽に収穫する技術を学んだりだとか、過程や工夫を楽しめないと飽きは必ず訪れる。

新しい趣味で次こそは「一貫性」を手に入れられると思っていたが、残念ながら自分は過程を楽しむのが下手らしい。しかし忘れっぽさ故、時が経てば飽きたことを忘れて、舞い戻ってくるのだろう。

 

半年前と今。わたしは確実に歳をとって、己を理解しつつあり、周囲の環境も変わっている。飽き性と忘れっぽさと図太さとを携えて、またブログを書いていきたい。