書きたい分だけ書くブログ

冗長な戯言(たわごと)をつらつらと

優しさと汚点と美点と

旦那はわたしに優しいねと言う。優しさがわたしの美徳の1つだと告げる。ありがたい。しかしわたしは自分が優しさに満ちた人格だとは思わない。むしろ他人に無関心で、自己愛に満ちた我儘な人間だと思う。考えてみた。

 

ネットのWeblio辞書で「優しさ」を調べると、こうある。

 

心温かく、思いやりがあること。または、おだやかでおとなしいこと。

 

心温かな人間かどうか。

他者に感情移入できる、共感できるという点でいえば、合致する。TVやネットで悲しいニュース、感動的な出来事を知るとすぐ泣く。外部からの圧に影響を受けやすいので、時には悩みの種だ。他者の感情を完璧に理解できるなどあり得ないので、これは己の想像力が肥大化しているだけに過ぎない気もする。

 

思いやりがあるかどうか。

他者の気持ちを慮って、行動できるか否か。おそらく否。

わたしは気分屋かつ感情的だ。他者と衝突し傷つくのを極端に恐れている。他者を鑑み、行動しようと意識してはいるが、自分と他者を天秤にのせると、おそらく自分の優先順位が高くなるだろう。

 

穏やかかどうか。

プレッシャーや不安に弱い。すぐメンタルを崩す。落ち着きがなく将来のことばかり考えがち。叱咤されるとすぐ凹む。口下手なので、物静かだと感じる人もいるだろうが、心穏やかとは程遠い人間だと思う。

 

おとなしいかどうか。

よくわからない。気安い相手にはべらべら喋るけれど、基本的には口下手だ。己を抑えてその場をやり過ごせば、収拾がつくと思う癖もあるので、おとなしいのかもしれない。

 

己に悪口ばかり言っているような気がしてきた。

こうして振り返ると、ポジティブに言うなら自分はちょっと想像力が豊かで、繊細な人間なのだろう。己を肯定的に捉えていたい気もする。いやしかし、自身ではやはり自己愛と偏見に満ちた、歪んだ人間だとどうしても感じる。

己を低く見積もるのは、人生に対して「どうせ」と言い訳をしたいからではない…と思う。性格の悪さは事実だから、事実を事実として受け入れて、それでも前に進んでいきたいと思うからだ。そんなクソみたいな人間でも生きていていいだろうと、口に出していきたいのだ。こんな人間でも役に立てることが、もしかしてあるかもしれんと、開き直って前に進みたいのだ。

 

わたしは今まで、自分の悪い箇所は改善できる思っていた。人は「成長」して然るべき、わたしは死ぬまで「成長し続ける」と信じていたのだ。

しかし35歳になり、成長する部分と、死ぬまで変わらない汚点があるのにようやく気付いた。なかなか矯正できないこと、認めざるを得ない事実があると。だから、苦虫をかみつぶしてでも真実を受け入れ、自分ができることをやっていく。人生は何もせずとも時間は経つが、どうせなら前向きに行動していきたいのだ……。

 

…………しかしそう考えると、旦那が「優しいね」と言ってくれるのは彼なりの真実なのかもしれない。他者の真実を、己の真実として受け入れる勇気を持たねばならないのでは…?それに今回は己の汚点ばかりあげたが、美点にも目を向けなければ不平等なのでは?美点を敢えて無視するのは、人生に言い訳をしている証拠なのでは?

ううむ………………何も言えない。何も言えなくなったから、この辺りで文を終える。もう少し、己を冷静に分析しなくてはならない。汚点も美点もひっくるめて、わたしという事実なのだから。この記事は冷静さを欠いた文章なのだろうか、また時をあけて、見直してみよう。