書きたい分だけ書くブログ

冗長な戯言(たわごと)をつらつらと

こんなことを書いてないで早く寝なくてはいけない

今日は気持ちが沈んでいる。

プライベートで課題が積もっていて、解決までの道のりも時間がかかりそうだ。自分が労力を払えば済むならいいが、自分以外の家族に降りかかった出来事は、自分のことのように心にくる。

 

30代の今からこんな弱メンタルで、老後大丈夫なのかなと思う。

これから先、体は衰えていくばかりだ。病院にもたくさんかかるだろうし、髪は薄くなり、歯も減っていく。一番心配なのは目だ。眼鏡とは小学2年生から仲良しこよし。視力が奪われるのが最も恐ろしい。どうにか阻止したいところだが、インターネット大好き人間の視力の行く末はどうなることだろう。

病院通いも増え、服用薬も徐々に片手で収まりきらなくなるのやも。最近は寝る前のストレッチや腹筋が習慣になりつつある。せめてもの筋肉や、柔軟性は失われないよう精進したい。

精神面は本当の本当に予測できないが、体と共に弱くなる側面と、時間と共に鈍感になったり強固になる側面があると信じたい。

 

自分だけでなく、周りから1人、また1人と大事な人たちがいなくなっていくことに、耐えられるのだろうか。身近なところだと、祖父、父、母。祖母はもう父方・母方共に天国へ向かってしまった。妹に、旦那、父の再婚相手、鳥。想像がつかない。

我が家の大事な鳥ちゃんが、知人宅にお泊まりした際は、ぽっかり空いたケージスペースが心許なくて、妙に寂しくなったのを覚えている。

自分に子供はいない。年齢と体質から99.9%の確率でもう子供はできない。いつか1人で終幕を迎えることを覚悟している。決意と現実の実感は異なる。心に墨で決意を書きつけても、色が風化し剥がれ落ちて、雷雨に晒される瞬間が訪れるのだろう。おとぎ話のような未来の話。怖い。

 

気持ちが沈んでいるときに、遠い過去や未来を夢想するのは健康によくない。やめた方がいい。マジレス。ただ1つ学べるとすれば、過去や未来を不安視するときは、極めて調子が悪い時なのだ。体を温めて眠ったほうがいい。

今日の青森は気圧変化が著しいし、昼間は暑くて夜は涼しい。気持ちが沈む条件が揃いまくっている。有吉の壁とか、ゲーム実況とか、Steamサマーセールとか、楽しい話題に浸って早く寝よう。

コーヒートークのガラとハイドへの雑感

Steamでコーヒートークを遊んだ。

夜だけ営業するカフェのバリスタとなり、店に訪れる客へホットドリンクを提供、時には話し相手になったりする。

人間はもちろん、エルフや人狼、オークらが共存するファンタジーな世界観だが、舞台は2020年のアメリカ・シアトル。彼らはこの地で勤労に励み、恋愛に勤しみ、悩みを抱える。

バリスタ視点から彼らの人生にそっと寄り添う、粋なノベルゲームだ。

 

まだ未プレイの方はぜひ遊んでみてほしい。SteamやSwitchで遊べる。体験版もあるよ。以下文章はゲームのネタバレを含みます。

store.steampowered.com

 

 

 

ゲームを一周した今、ガラとハイドについて語りたくてしょうがないので文章をしたためる。Wikipediaや二次創作で、公式設定やら皆の解釈を一刻も早く浴びたいのだが、まずは自分の意見をまとめておかねば納得がいかぬ。認識違いがあったら笑ってください。書きます。

 

初めてのプレイ時、ハイドの「我々が友人でなかったら、どうなっていたと思う?」の台詞に固まった。カフェ・コーヒートークにガラがハイドを連れて訪れてから、3度目だかだったか。わたしはBLが好きだ。あまりの不意打ちで思わずにやけたのを許してほしい。ハイドから真意は明かされなかった。どんな思いでこの言葉を告げたのか、この2人の関係性が今後どうなるのか気になっている。

 

クリア後にコーヒートークを友人にお勧めしたら、この作品はLGBTの描写があるんだってねと話題をふられた。全然知らなかった。異性同士・男性同士、女性同士が互いを思い合う描写が見られたが、直接的な表現があったのは異性間だけだ。

 

ハイドはガラと出会った頃に別の女性(吸血鬼?)と結婚し、その後離婚している。理由はわからないが、離婚を切り出したのは妻側。気持ちの変化があったのだろう。ハイドは吸血鬼ゆえに老いるのが遅い。顔面の美醜や、財政面が離婚の理由とは考えづらい。長命種ゆえ変化には慣れがちだろうから、社会情勢の影響でもなかろう。好きな人でもできたのか、共に過ごす合理性が失われたのか。

ハイドは愛を熱量でもって訴える人物ではなさそうだ。趣を解するが、合理的だし、現実主義者で、無駄な行為を嫌う。たとえば、ハイド・フレイヤ・ルアが同席した際は、理詰めでもってルアに現実を突きつける。他者の痛みを受け止め、その傷の手当をしながら心を解きほぐすみたいな、柔和な手段は選ばない。吸血鬼の妻がどんな愛情表現を夫に望むかは謎だが、人間の女性同様、幾分感情的な言葉や態度を望むとしたら、吸血鬼男性の好意では物足りなく感じるのではなかろうか。

とにかくハイドは妻を失った。離婚後、「涙など枯れた」と告げるハイドに、当時運転手であったガラは「痛みに慣れることなどない」と告げハイドの奥底にある感情を引き出す。後悔だろうか。かつての妻への愛だろうか。ハイドは珍しく悲しみを見せる。

 

運転手兼用心棒のガラと、雇い主のハイドとの間には、はじめビジネスライクな関係しかなかっただろう。同盟が結ばれたとはいえ別種族、しかもかつての敵対種族では、心が許せる関係になるには時間がかかる。が、2人は長命だ。ハイドの離婚であったり、ガラがセラピーにかかる中で、互いの弱みを目の当たりにする機会は多い。友人として距離が縮まるのは理解できる。理解できるが、あまりにこのハイドの言葉には含みがありすぎないか。

 

「我々が友人でなかったらどうなっていたと思う?」

「どういうことだ?」

「…

 忘れてくれ。

 どのみちもう遅い。」

 

うむむむむむむむ。

まずこの言葉の意味なんだけど「友人ではなく、恋人だったら」って意味なのだろうか。互いに好意を持ち、愛しあう関係だったらと捉えていいのかしら。

そうでないとしたら?「友人ではなく、同盟が結ばれる以前の人狼と吸血鬼のような関係だったら」の意なら、その場で発言できるはずだ。今は友人同士だし、心地よい距離感が保たれている。このままの関係性を維持したいと思っているなら、言いよどむ必要はないはずだ。

そうじゃなくて、伝えるのを怯むような、今までの関係性を覆す危うい意図を持つから発言しなかったのだ。

惚れた腫れたの初々しい感情ではないにせよ、ハイドはガラを単なる「友人」としてでなく、別の定義を持たせようとしている。しかもガラの答えを待たず、己の内で解決しようとすらしている。ハイドのこの不器用加減が、とても愛しいなと思う。

言葉にせずとも、隣にい続けることで愛を形作るのかもしれない。長命の友人や家族が周りにいたら、多様な愛を目撃してきたことだろう。そんな彼すら定義できない思いを、体現しようと試みるのは、とても勇気がいることだろうし、戸惑いもあるだろう。当たり前のような顔でガラの横にいて、仕事という人生のタスクをこなし、生きていく様はとても逞しい。どんな形であったとしても、彼には納得がいく未来を選び取ってほしいし、幸せになってほしい。

しかし、ガラへの心象が変化したのは、何がきっかけだったのだろう。そういうところ気になる。

 

ガラは穏やかで、己の程度を理解していて、真摯だ。ハイドの全てを察している訳ではないが、友人として大切にしているのが伺える。群れを大切にするのと同等の感情かもしれない。受けた恩は忘れないって考え方が、人情味があるというか。血が通ったコミュニケーションが取れるので、病院みたいな場所でも長年勤務できるのだろう。家族を大事にする人狼所以と、兵役時代から今に至るまでに傷を負った経験が、ガラの人間性人狼性)を作り上げている。

兵役時代はおそらく命を奪う側でさ。己の意志とは裏腹に、任務遂行のため爪をふるったのが心に深い傷跡を残したんだろう。若い頃は腕に自信があって、その力ゆえに大勢の民を傷つけ、退役後も力しか信じることができず足掻いていてた頃、ハイドに会ったと。ハイドの人間味の幾分かは、ガラから分けてもらったものだろう。

一定周期で人狼に変貌する訳だが、兵役時代は人狼化とどうやって付き合っていたのか。抗変身薬が支給されていたか、人狼化現象そのものが、作戦に組み込まれていた可能性もある。後者なら、人狼の尊厳自体が低く扱われていることになるから、おそらく前者。人狼化と上手くお付き合いするのも仕事のうち、の認識が一般的だろう。(人狼の権利が主張され、他種族と同等の身分に引き上げられたのは近代になってから、という可能性も捨てきれないので考察が滾る)

ガラから色恋の面は伺えない。妻はいたのか、惚れた相手はいたのか、想いを寄せられたことはないのか。…いずれかはあるだろうけど、過去より今を大切にするタイプだな。奪い続けた経験から、当たり前の欲望みたいなのとは自然と疎遠になったのかもしれない。ワンコな種族的に「これだけお世話になったら、死ぬまで相手に尽くす」みたいな忠誠心があるのかも。妙に聖人じみているというか。達観している感がある。

 

ガラとハイドはこれからも共に時を過ごしていく。変わらず傍らに有るのを選んだハイドに、次の働きかけをするのがガラだったらいいなと妄想する。ハイドを最もよく知っているのはガラだから。

 

物語では、ハイドはルアに、ガラはベイリースに、それぞれの視点からアドバイスをする。ハイドがガラとの関係性を踏まえ、発言しているのだと思うと何だか考えさせられる。

吸血鬼の血統はエルフの一族と似た高貴さを感じる。人狼サキュバスのような温かみは薄そうだ。全てを手におさめることは出来ずとも、最も宝とする存在を見誤るなと、孤独に生きる吸血鬼は言う。

一方ガラはベイリースに家族の血の濃さや、彼女や彼自身を大切にすることを説き、決断は彼らに委ねる。

折衷を図るのはとてつもなく時間がかかりそうだが、違う生き物同士で生きていくのはこういう無理難題を越えていかねばならぬ。ルアとベイリースにはもちろん幸せでハッピーでいてほしいし、暗にお互いのアドバイスは、ガラはハイドに、ハイドはガラに向けてのアドバイスになってるんじゃないかと思って、もう、互いに聞かせてやりたい。

 

つらつらと長文を書き連ねてきた。

ガラとハイドは、「愛」でひとくくりに定義されなくていいので、彼ららしい有り方でこれからも共に歩んで行ってほしい。2人が見つけた形こそが、コーヒートークを遊んだプレイヤーへの密かなエールになるし、何かこう、すごい化学反応になるんじゃないかなって思う。

 

ひとまず、これが今わたしが考える、ガラとハイドの関係性だ。これでコーヒートーク2を心おきなくプレイできるし、Wikipediaも二次創作も見に行ける。繰り返すが、全くの認識外れで的外れな話をしていたら、笑ってほしい。

ただただ2人に幸せになってほしいだけなのだ。

表現活動についての認識の違い

先日、旦那と友人と食事会をした。会話内で表現活動における認識の違いが明らかになり、大変興味深かったので箇条書きでまとめておく。

 

・ダンス動画の受け止め方

旦那は時折、YouTubeのダンス動画と共に身体を動かしている。流行りの曲に合わせて動画主が自作ダンスを踊るので、一緒に踊ってエクササイズしよう!というコンセプトのものだ。

ジムに行かずとも気軽に運動できるが、わたしはこういった動画が苦手である。

分析したところ、旦那はこういった動画を「一緒に運動してくれるパートナー」と認識しているらしい。エクササイズ方法がわからないので、動き方を教えてくれるのが嬉しい。流行りの曲で気分も上がるし、楽しそうに運動しているのを見ると自分も楽しいとのこと。

わたしはダンスを習っていた時期があり、こういった動画を「レッスン」だと認識していると気づいた。動画出演者は「先生」なので、どうしても過去に教えを乞いた先生と比較してしまう。目の前の方が表現者として尊敬できるか、みたいな方向に思考が働くので、楽しさより技巧面や身体面を注視しがちだ。自分より筋肉のない方に教わるのは…みたいな傲慢な考えに囚われ不機嫌になるし、そんな自分が見苦しいし、心が狭いと思って、動画を見ながら自己嫌悪に陥る。悪いループだ。ダンスレッスン自体、苦手としていたので余計に塞ぐのもある。

食事会では、「無料で見れる動画だし、有料のダンスレッスンとは違うよ」と意見をもらった。それはそうだ。

昔レッスンを受けたあとは、ダンスができない自分が惨めに思えたものだ。楽しく体を動かせる人が内心羨ましいので、こんな恨み節をぶつけるんだろう。上手いとか下手とか考えずに、身体を動かせたらいいなと思う。

 

・何のために表現するか

会食した友人も一時期、表現者として活動した時期があった。またやりたいかと聞くと、今はそんな気分にはならないという。理由としては、一緒に活動していた仲間が引退し、所属コミュニティがなくなったのが大きい。

じゃあ別の表現活動をするのはどうかと尋ねた。わたしは友人の表現を見るのが好きだ。顔馴染の人物が手掛けた作品は想像力を掻き立てられるし、わずかながらでも人間性に触れれるのを嬉しく思う。ブログはどう??とブログ仲間を作る下心も込めて聞いてみた。が、当人は「反応が欲しくて活動をしていた」という。拍手、視線、表情、声、具体的な反応をもって満たされる。反応がないまま続けるのは難しいかもしれないと。

考え方の違いが面白いなと思った。自分はちょうど前回、匿名に憧れる旨をブログにしたところだ。

 

clton.hatenablog.jp

 

自分はアクセス数さえあれば、直接の反応がなくともある程度満足できる。あくまで自分が納得できるか、楽しいかが重要だ。直接の反応を怖がっているふしもある。だから匿名性で自身を守りたいのだ。

どっちの考えがいいとか悪いとかではない。ただ友人は、わたしには真似できない表現ができる人間だから、いつか何かしらで感性を爆発させてほしいと思ったりする。

 

 

当たり前に生活していると、自分の視点が唯一絶対の正義のように思えてくる。だからたまにこうして、見え方の違いをすり合わせるのは面白い。

表現にネガティブな感想を持つのにも何らかの理由があって、それを180度方向転換するのは難しいけど、あぁこういう認知をしがちだなって認識できるだけでも、救いがある気がする。

匿名に憧れる

ブログを匿名化したいなと思って作業を進めている。

 

ここ最近ブログが自己表現の1つだと認識でき、より気楽に、のびのびと書けるようになった。思いを正直に主張でき、整理整頓ができる場所。非常に心地が良い。

Google AdSenceに登録しているものだから、アクセス数が気にならないと言ったら嘘になるが、そもそもこの2年間で得た収益など、ワンコインよりちょっと多いくらい。あくせくするより、この場所を守りながらのんびりと続けていきたいなと感じている。

 

で、より気ままに続けるため、Twitter連携を解除し、ブログアイコンを変えた。

元々連携していたTwitterアカウントの繋がりには、リアル友人知人が多い。見られると困る訳ではないが、Twitterでシェアすると「見てください!!!!」と大声を発している気がしてどうも気まずい。「今日落ち込んだ」「生きるのがつらい」みたいな記事も、愚痴を聞かせているようで申し訳がなくなる。だからネガティブな記事はTwitterではシェアしないようにしていた。

が、せっかく書いたものだし、誰かに読んでほしいは読んでほしい。趣味専用のアカウントが余りかけていたので、匿名アカウントとして再利用することに決めた。フォローもフォロワーも少ないが、今後はそちらで記事をシェアしていこうと思う。もしこんなブログ主でよければフォローください。

 

twitter.com

 

ブログアイコンは、上記Twitterアカウントのアイコンで使っていたものだ。

お絵描きソフトFireAlpacaで10分程度で落書いた絵だが、色合いもいいし、ベタ塗りした絵の具みたいで妙に気に入っている。前は著者近影みたいな絵にしていたが、匿名性を高めるため取り下げた。

 

これを機にブログ名も変えようかと思ったが、すぐには思いつかないし、奇をてらいすぎてもよくないので保留。いい名称が見つかれば変更するかもしれません。

 

とはいえブログのURLは変わらないし、はてなidも変わらない。過去記事を漁ればわたしという人間に辿り着こうと思えば辿り着けるし、このネットの海原では「匿名」は理想郷のようなものだろう。かといって1からブログを作り直すほど、思い切りはよくない。傷つかない場所で、誰にも傷つけられず、誰にも遠慮せず、でも誰かにはちょっとだけ注目されながら、表現という名の自己保身を継続したいという、人間的弱さの現れなのだ。

 

…。まあ大して何も変わりはしない。

もし読んでいる方がいるならば、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

こういう場所があるのはいいことだ

くさくさする出来事があったので、用事を済ませがてら父の実家を訪ねた。

わたしの本当の実家ー母方の実家は、色々あって既に別の誰かの手に渡っており、1番思い出深い住宅にはただいまできないでいる。が、東京から青森にUターンして5年以上経ち、父方の実家は実家とイコールの存在になりつつある。

 

父にはLINEで昼過ぎに訪れてもよいかと聞いたが返信がなく、電話も通じず。定年しているとはいえ多忙多趣味な父である。用事を片付けながら、まあ在宅していたらラッキーくらいの気持ちで家に向かった。

用事を1つ残した状態で目的地に到着したが人気がない。次の用事まで時間が空いてしまったので、何となしに家前の道路に車を停め時間をつぶす。車通りがない道とはいえ、家前にどんと停車できるのはここが実家所以だと思った。鳥の鳴き声を聞きつつ車内でのんべんだらりとしていたら、父がちょうど帰宅。用事を済ませたら立ち寄るねと伝え、一旦立ち去った。

 

グループホームに通う90歳越えの祖父を訪ねた後、実家に戻る。何週かに1度しか面会していないが、そのたびに年を重ねているのを実感する。今日は孫のわたしと話しながらこくりこくりと居眠りしていた。父に状態を伝えると、夜眠れないので睡眠薬を処方されているらしく、その影響かもしれないということだった。家族が老いていくのを見るのは少しつらい。父も徐々に腕の筋肉が落ちているように感じる。2人とも会うたび孫(娘)のわたしを気にかけてくれるので、老化にクヨクヨしておられんと思う。

 

実家では他愛もないことをして過ごした。持参したコーヒー豆を適当な分量で淹れ、2人で飲んだ。居間に行くと、幼少期に買ってもらったドリームキャストが鎮座しており驚いた。納屋を掃除したら発掘されたらしい。わたしが中学・高校の頃に買いあさった「ぷよぷよ~ん」だの、「ぷよぷよDA!」だののディスクも同時に見つかっていた。上京のタイミングで捨てられたかと思っていたが、大事に保管されていたらしい。父が「セガラリー」を練習中というので、2人で対戦した。ボコボコにされた。

それからわたしの近況を聞いてもらった。旦那、仕事、将来。父と話していると自分がちっぽけな子供になって気がしてくる。

この実家の話もした。祖父が祖母と共に建てた家で、年期も入っているがなかなか大きい。維持費も大変で、いずれは「実家」と呼べる場所がなくなってしまうかもと思っている。今のところはその予定はたっていないが。

「まあ、こういう場所があるのはいいことだ」と父は言った。

帰りに趣味の家庭菜園で取れた小松菜をもらった。スーパーの小松菜と比べると葉の色合いは黄緑で、日光を浴びて元気に育ってます!と言わんばかりである。虫に食われていない葉がないくらい穴ぼこだらけだったが、無農薬栽培なのでしょうがないとのこと。菜園横の水道で水洗いし、根をぷちぷちと取り除いた。明日にでもお浸しにして、味を確かめてみる。

 

コーヒーカップを片付け、ビニール袋に小松菜を入れ、また来ると伝えて実家を出た。元気だった祖父がそうしてくれたように、父は車が発信するまで外で見送ってくれる。

日中に訪ねる実家は現実感がない気がしたけど、くさくさした気分が少し晴れた。

無責任な伝言ですが

ブログで自ら抱えている悩みや困難をしたためている方は多い。そのような記事を見ていると、主と交流してみたいなって思うことがある。

 

わたしも時折ブログで悩みを吐き出す。暗くナルシシズムに溢れどうしようもないと思うが、内省の手段に適しているし、書きながら思考整理ができる。誰かに解決や助けを求めるというより書いて満足するタイプだ。とはいえ悩みが霧散する訳ではないので、壁にぶつかった話や、落ち込んだ出来事、疑問を提言した記事は興味深く読んでいる。特に読者登録しているブロガーさんには、日常的に勇気だとか親近感みたいなのをもらっている。

そうした励みにさせてもらっている方々の、悩み度合い高めの記事を見ると心配になる。

 

声をかけてみたいけど、自分に何ができる訳でもない。大体にしてネット上の文字のやりとりは距離感がわからない。初メッセージには責任が生まれるような気がして怯むし、財力も責任感もない自分から、ただ気持ちだけ送られるのって、傍迷惑以外の何者ではないのではと考えたりする。じゃあ何故こんな文章を書いているのかと問われれば、ちょっとだけこれを見ているかもしれないあの方に伝えておけたらなと思う。

 

その、ゆるく交流できますよというか、そばにおりますよというか。行政面とか金銭面とか資格面とか、とにかく具体的にはまっっっっったく力にはなれないのだけど。あなたのブログを見ているし、あなたが歩んでいる生活をのぞき見させてもらっています。「疲れたわー」とか「今日飯食った」っていう雑談に「今日も乙」とか「何食べたん?」と返すくらいならできるというか。同情とかではないんですわ。アパートの隣人が料理作るのに醤油なくて困ってたら、全然貸しますよっていう。昭和的な感覚というか。

最低限度しか力になれんけど、その、うーん、言葉選びが間違っていたらあれなんだけど、無理しすぎないでほしい。

お互い近くにいて、顔を合わせたことがあって、同じ職場で働いてたりしたら、よかったのになあ。

調子がよい日を増やしていきたい

調子のいい日がある。

内面が凪いでいて、体から力が抜けていて、過去にも未来にも執着しない、ただただ今そこにある今を謳歌でき、白詰草に足を止めれるような日。それが今日だ。

 

どんな状態をもって「調子のいい」と言えるのだろうか。己を鑑みてみる。

 

肩まわり。

肩の力が抜け、腕は重力に従いすとんと下がっている。二の腕は体側に寄り添っており、体と腕の隙間が少ない。顔と肩の距離が長く感じる。

顔まわり。

目元周りに緊張がなく、瞬きが軽い。瞼は、通常より1/6〜1/5ほど下りているような、いつでも眠りに落ちれるような緩やかな重みを覚える。

声には張りがない。音量はやや小さい。音声の響きは喉の奥のほうで生み出されていて、ややくぐもっている。発する言葉の速度はゆるやかだが詰まりがない。

話すのが苦手な人間なので、普段一生懸命喋ろうと意識すればするほど、スピードが加速し、障害物にぶつかりがちだが(下手なレースゲームをしているみたいだ)、今日は気負いがない。

背筋。

伸びている。いつもより椅子の座りがよい気がする。

精神。

過去の眉間に皺がよるような出来事を反芻することも、未来を思い不安に駆られたりすることもない。テンションが高い訳でも低い訳でもない。ただ淡々としている。与えられた仕事をこなし、空いた時間に感謝しつつ趣味の時間にあて、1日をこつこつと過ごしていく。笑えることに笑い、面倒なことは面倒だと思える。BGM代わりに聴いている配信者の雑談放送で、主が言う視聴者へのブラックな冗談に「言ってるわこいつwww」と心で言い返せるだけのメンタルがある。内弁慶だっていいのだ。

他。

強い痛みを感じる部位がない。最近親知らずを抜いたが、ようやく痛みも落ち着いてきた。肩凝りだの腰の痛みだのは多少ある。お付き合いできる程度の痛みは捨て置く。

こんな状態が最高だ。こんな穏やかな日々が繰り返し続けばいい。

 

淡々とした暮らしは食傷気味になる、強い刺激が無くていいのかと疑問視した時期もある。主に20代だ。尖って足掻いていた時代に、妙に記憶に残っている出来事が1つある。

かつて東京の調布市にある小さなアパートに住んでいた。ベランダに備え付けの物干し竿があり、晴れた日は外に洗濯物を干していた。ある晴れた日、洗濯のためベランダ用のサンダルを履き、外に出て陽光を浴び、白い雲が生えた青空を眺めたとき、

『あぁ、幸せだなあ』

と確かに思ったのだ。何が起こった訳でもないのに多幸感に包まれ、こんなの初めてだなと思ったのを覚えている。

当時は人生に悩みまくっていて、病む日が続いた。しかしその日の出来事にその後何度もーー30代半ばの今ですら励まされることになる。

人生にこんな幸せな瞬間が訪れるならもっと生きてみてもいい。それに、1度自分の体の中で起きた化学反応なら、これ1度きりなんてことはない。きっとまた同じ感動を味わえる。そう、ベランダでの感触は感動に近かった。

何の根拠がなくともあの時の自分を信じてよかったと思う。回数はけして多くないが、今でもたまに同じ感覚に陥る。

 

突然だが、株式会社よそ見さんが運営するゲームさんぽチャンネル「ゲームさんぽ /よそ見」を知っているだろうか。

 

知らない方はこちらから↓↓↓ 面白いよ。

youtube.com

 

現在こちらのチャンネルでは、アクションアドベンチャーゲーム「Detroit: Become Human」を精神科医名越康文先生とプレイするシリーズが投稿されている。

2023年6月17日現在の最新回、

【重大すぎる分岐】カーラの決断とマーカスの忍耐/ゲームさんぽ×デトロイト#05

にて、興味深い会話があるので一部引用する。

 

youtu.be

 

いいだ(ゲームさんぽ案内人/株式会社よそ見代表):

「怒りって喜びよりも「腹持ちがいい」っていうか、長持ちする。嬉しかったことって1週間後とかにはどんどん薄れていっちゃうのに、ほんとに怒ったことって、何週間たっても思い出すたびにこう、怒りが湧いてくるというか」

 

名越:

「怒り」に対抗するのは「喜び」じゃないんです。いいことがあるってことじゃないんです。喜びがあってもそれは3倍速くらいで消えていくんです。それよりは、日常をこうやって歩いてることが爽やかであるとか、深呼吸すると「あー生きてる」って実感があるとか、朝日を浴びたら気持ちがいいとか、ニュートラルであることを自然に身体が喜ぶようなモードにならないと怒りに対抗できないんですよ。怒りとか憎しみとか暗さに対抗できないんですよ。いいことがいっぱいありますように、それで対抗しますようにって絶対負けるんですよ。(略)

だからコンディションをよくしておくってのが実はすごく大切。体調がいいってすごい大事。

 

答え合わせができたみたいで嬉しかった。調子がよい日を増やしていきたい。