書きたい分だけ書くブログ

冗長な戯言(たわごと)をつらつらと

表現活動についての認識の違い

先日、旦那と友人と食事会をした。会話内で表現活動における認識の違いが明らかになり、大変興味深かったので箇条書きでまとめておく。

 

・ダンス動画の受け止め方

旦那は時折、YouTubeのダンス動画と共に身体を動かしている。流行りの曲に合わせて動画主が自作ダンスを踊るので、一緒に踊ってエクササイズしよう!というコンセプトのものだ。

ジムに行かずとも気軽に運動できるが、わたしはこういった動画が苦手である。

分析したところ、旦那はこういった動画を「一緒に運動してくれるパートナー」と認識しているらしい。エクササイズ方法がわからないので、動き方を教えてくれるのが嬉しい。流行りの曲で気分も上がるし、楽しそうに運動しているのを見ると自分も楽しいとのこと。

わたしはダンスを習っていた時期があり、こういった動画を「レッスン」だと認識していると気づいた。動画出演者は「先生」なので、どうしても過去に教えを乞いた先生と比較してしまう。目の前の方が表現者として尊敬できるか、みたいな方向に思考が働くので、楽しさより技巧面や身体面を注視しがちだ。自分より筋肉のない方に教わるのは…みたいな傲慢な考えに囚われ不機嫌になるし、そんな自分が見苦しいし、心が狭いと思って、動画を見ながら自己嫌悪に陥る。悪いループだ。ダンスレッスン自体、苦手としていたので余計に塞ぐのもある。

食事会では、「無料で見れる動画だし、有料のダンスレッスンとは違うよ」と意見をもらった。それはそうだ。

昔レッスンを受けたあとは、ダンスができない自分が惨めに思えたものだ。楽しく体を動かせる人が内心羨ましいので、こんな恨み節をぶつけるんだろう。上手いとか下手とか考えずに、身体を動かせたらいいなと思う。

 

・何のために表現するか

会食した友人も一時期、表現者として活動した時期があった。またやりたいかと聞くと、今はそんな気分にはならないという。理由としては、一緒に活動していた仲間が引退し、所属コミュニティがなくなったのが大きい。

じゃあ別の表現活動をするのはどうかと尋ねた。わたしは友人の表現を見るのが好きだ。顔馴染の人物が手掛けた作品は想像力を掻き立てられるし、わずかながらでも人間性に触れれるのを嬉しく思う。ブログはどう??とブログ仲間を作る下心も込めて聞いてみた。が、当人は「反応が欲しくて活動をしていた」という。拍手、視線、表情、声、具体的な反応をもって満たされる。反応がないまま続けるのは難しいかもしれないと。

考え方の違いが面白いなと思った。自分はちょうど前回、匿名に憧れる旨をブログにしたところだ。

 

clton.hatenablog.jp

 

自分はアクセス数さえあれば、直接の反応がなくともある程度満足できる。あくまで自分が納得できるか、楽しいかが重要だ。直接の反応を怖がっているふしもある。だから匿名性で自身を守りたいのだ。

どっちの考えがいいとか悪いとかではない。ただ友人は、わたしには真似できない表現ができる人間だから、いつか何かしらで感性を爆発させてほしいと思ったりする。

 

 

当たり前に生活していると、自分の視点が唯一絶対の正義のように思えてくる。だからたまにこうして、見え方の違いをすり合わせるのは面白い。

表現にネガティブな感想を持つのにも何らかの理由があって、それを180度方向転換するのは難しいけど、あぁこういう認知をしがちだなって認識できるだけでも、救いがある気がする。