書きたい分だけ書くブログ

冗長な戯言(たわごと)をつらつらと

2022年8月も終わりに近づいてのボヤキとか

単なるボヤキの文章です。まとまりがないとだけ、最初に述べておきます。

 

どことなく調子が悪い日が続いている。天気のせいで体が重かったり、意志を上手く伝えられなくて悶々としたり、そもそも疲れが溜まっていたり。爽快な気分で朝を迎え、充実した思いで布団に入るというのは、なかなか難しい。

どうしようもない心地がしてきて、鬱々した気分をブログにぶつけてやれ、と昨晩久方ぶりにブログを書いたのだが、気づいたらテクテクライフの紹介記事書ききってた。不思議な気分だった。

 

 

最近PCを触る機会が減った。スマホがあまりにも手軽すぎる。漫画にもゲームにも動画にも片手でアクセスできる。寝転がって親指ですい、すい、と画面をスクロールするだけで、現実逃避の無限回廊へダイブできる。この親指が壊死しない限り、わたしは現実のあらゆる痛みから守られる。

 

PCに触る機会が減ると、ブログを書く機会も減る。スマホで執筆を試みた経験もあるが、フリック入力とタイピングの速度差に辟易しやめた。意識的にPCに触れる機会を増やせばいいのだが、そんな気も起きず。書きたいという強い欲求が起きず、いや書くんだと心を奮い立たせてキーボードで文字入力するも結局形にならず、無性に落ち込んだ。

 

以前の記事で「ブログ毎日書けるかも」と述べ、その通りに行動できないことにへこんだりもした。わたしが気分のままに書き散らした文字列に実質的な拘束力など無いのに、宣言した言葉には責任が宿ると思い込み、己を縛る。安い呪いだ。誰がわたしに「毎日書かないなら責任を取れ」と賠償を求めるというのか。それは頭ではわかっているが、予定した通り動かねば、誰かの期待を裏切るかもしれないとも感じていた。これは脳みその自動演算で生まれ出づる呪いなのだ。どうしようもない。

いつからわたしはそんな偉大な人間になったんだ。烏滸がましい。謙虚に生きろ。文字で振り返ると己を叱咤できるが、現実ではなかなか気分は浮上しなかった。

 

ブログをこのまま書けなくなったらどうしよう、別の趣味を見つけねば。と、マッサージの本を買ってみたりした。旦那に「たけなみは趣味じゃなくて、技術が欲しいんじゃない?」と言われた。確かに。わたしは常に頭のどこかで老後を考えている。おばあちゃんになっても食いっぱぐれずに生きていける技術、人と繋がる手段を欲している気がする。その根底が不安からか、自信の無さからか。わからぬ。

 

老後に対する答えなど現時点で出る訳もなく。テクテクライフをしたり、マッサージをしたり、あてもなくふわふわ過ごし、ふとPCを開いたある日。旦那に「あ、ブログ書くの?」と言われ、まあ…何か最近調子悪いことでも書きなぐるか、と思って何となくキーを叩き始めたら止まらなくなった。近況報告がてらテクテクライフを語り始めたら、近況の枠に収まりきらなくなって、別記事にして書き上げた。

 

結局文字を書くことが楽しいのだろう。頭でぐるぐる思考していると、書く行為に快楽など感じれないが、ぐるぐるが止まったら楽しい。気分がのったら楽しい。それだけだ。書けないときは書かない。書けるときは楽しく書く。たぶんわたしの場合はそれくらいのハードルの低さでよいのだろう。

誰かの役に立つ文章を書くのが一番尊いと思う。人は行為で価値を生み出し、社会に貢献するべきなのだ、きっと。だけどわたしはこれからも細々と、自分にしか価値のないブログを書いていくんだろうな。わたしの人生がこれ以上息苦しくならないように。わずかでも饒舌でいられるように。ブログはそんな立ち位置でも、まあ、いいか。