書きたい分だけ書くブログ

冗長な戯言(たわごと)をつらつらと

親知らずを抜いてきた

「たけなみさん、覚悟はいいですか」

先生にそう告げられて、治療は始まった。

 

先日、ついにわたしにもやってきた。親知らずを抜く日が。

定期的に診てくれている先生が「この歯、気になりますね」と指摘したのが発端だった。場所は左の奥歯のさらに奥。頭がちんまり出ている親知らずがあるのは知っていた。レントゲンを撮ると見事に横向きに埋没しており、水平埋伏智歯なる大層な名前があった。「あっはっは。笑っちゃいますね」とわたしは笑った。シリアスなムードをシリアスに捉えないよう、呑気に笑う癖があるのだ。

噛む回数が減り顎が小さくなりつつある現代人には、横生え親知らずが多いらしい。幸いにもレントゲンに映った親知らずは1本。元々残り3本はわたしの口腔内には存在せず、この1本を駆逐すれば悩みの種も霧散する。

 

 

以下、歯の写真注意

 

 

 

はっはっは。笑っちゃうほど横向きですねえ

 

ほら見て、親知らず1本しかない。ラッキー



 

治療後は、痛み・腫れが必ずあること、ほとんど0%に近いが神経が傷つく可能性もない訳ではないことを説明し、治療は心の準備が出来次第いつでもいいですよと言う優しい先生に、「すぐ治療します!」と再来週の予約を入れ、その日は終了した。

 

当日。

空は清々しく晴れ渡っていた。歯医者へと移動する車内も初夏らしい熱を帯び、窓を開けるとよいドライブになりそうだ。天気とは裏腹に、わたしは得体のしれぬ感覚でもにょもにょとしていた。

車を駐車場に停め歯医者の入口へと歩く最中、脳にこんな映像が浮かんだ。木製の足の高いテーブルの上に真っ白い皿や銀のカトラリーがいくつも置かれている。花瓶だかガラスの浅めの鉢だかに、緑色の観葉植物が活けられている。薄灰色のねずみがチョロチョロとテーブルの上に歩を進め、皿の真ん中にちょこんと背を見せ鎮座する。

そう、わたしはこれからねずみになるのだ。よくわからんけど。実験体をイメージしたにしては優雅な妄想だ。

 

施術の椅子に通され、開口一番先生が冒頭の台詞を言った。こんなこと人生で言われることあるんだ、と思った。脱脂綿か何かで歯肉の表面麻酔をし、一旦薬が効くまで待機する。周りから先生も助手さんもいなくなると、やけに周囲の環境に目がいく。

BGMではレトロな洋楽が流れている。男性歌手が気持ちよさそうに熱唱し、曲の最後には喝采を受けている。窓の外は相変わらず青空と立木が見える。眩しい景色だ。今のわたしは目の前の鮮やかな世界と隔絶されたかのようだ。

親知らずについて遠方の妹と雑談した際、麻酔がきかずに悶え苦しんだという妹のエピソードが思い出され怖くなる。ふと手が小刻みに震えているのに気づく。ほんとに怖がってるな、と思い直す。歯医者は子供が嫌いなお出かけ場所TOP3に入るだろうが、もしわたしが子供だったら、こんな状況と心境、1人では抱えきれないだろう。

家族の顔を順番に思い出してみた。父、父の妻、母、旦那、妹、みんな笑っていた。父だけニヒルな笑みだ。続いてBLゲームの推しキャラの痴情を想像して、そんなこと想像してる場合じゃないだろとツッコミを入れたりなどした。

麻酔の待ち時間で口の中が涎だらけになってしまったが、そうしているうちに治療が始まった。

 

はじめに親知らず周辺に何本も麻酔をした。舌を器具で抑えられたときは、鼻が詰まっていたらこうして死ぬんだろうなとボンヤリ思った。

続いて治療器具の耳をつんざくようなキィキィした音が響いてくる。歯医者に来た実感が湧いてくる。一方で、耐えることに必死で時間の感覚が曖昧になる。治療がどの段階にあるかもいまいちわからない。

最初の説明では、歯の頭の部分を割って?砕いて?とにかく失くす。歯肉の一部を切り、できた空間を利用して残りの歯を手前側に引っ張る、みたいな工程だった気がする。このキィの音で歯の頭が両断されて、次のキィの音でこっちの端が切られて、今歯が引っ張られている。現状を己に納得させるため、脳内では見てもいない治療風景が繰り広げられた。BLゲームのキャラたちも再び登場し「大丈夫か?」「こんなこと考えてる場合か?」とゲームスチルまんまの顔でエールをくれた。

ぎししししという、これまでの生涯聞いたことのない音に気づいたとき、ハッと意識が引き戻された。歯の先端がねじられている。こっわい。痛みが出てきたので麻酔を追加した。まだまだ苦行は続くのだと覚悟を決めた頃あいに、突如治療は終わった。予想以上にあっという間であった。

 

歯科助手さんにより、顔にかけられたタオルマスクがサッととられる。急に視界が眩しくなるので苦手なのだが、現世に帰ってこれたことを強く実感できて、今回は嬉しかった。

先生が抜いたばかりの血まみれの歯を見せてくれる。頭が三分割、下が二分割になりました。たけなみさんの歯は根っこが1つなので抜きやすかったです、とのこと。1つとか2つとか個性あるんだ、何でもいいけど1つでよかったと思った。写真を撮っておかなかったのが悔やまれる。

 

痛み止めなどを処方してもらい、ドラッグストアに寄った後、帰宅の途につく。

外は刷毛で照りをつけたように眩しい。風も柔らかい。木漏れ日の影は、ふっくらした葉を揺らしている。

放心。そして脱力。生きているって素晴らしいと、疲労した頭で思う。

これからやってくる鈍痛と戦う決意をのろのろと固めながら、足取りも重く家に帰るわたしなのである。