書きたい分だけ書くブログ

冗長な戯言(たわごと)をつらつらと

手段の模倣では何も表せない

先日、絵をもらった。

 

バイト先の某カフェで楽しく働いていたら、女性のお客様が来店。見覚えのあるお顔に、以前も接客させていただいたことがあるなと気づいた。「リラックスしたいんですが、おすすめはありますか?」と質問を受け、紅茶系のドリンクをおすすめした。

お味を気に入っていただけたかなと思いながらその後も仕事をしていたら、その方がカウンター内にいるわたしを呼び止めた。以前お会いした時のことを覚えており、今回のドリンクもとても気に入ったと告げ、1枚の絵をわたしに差し出した。このカフェをイメージしながら、スケッチブックに絵を描いたのだという。初めての出来事にあわあわしながら絵を受け取り、礼を述べた。手柄自慢にならない程度に同僚に見せびらかしていたら、その方がまた戻ってこられ額縁を差し出してくれた。「仕事が忙しいだろうし、もしよかったら」と気遣いまでいただいて。

 

こんな形で絵をプレゼントされたのは初めてだ。とてもドキドキした。

何度か店内でお会いしたとはいえ、ほぼ初対面の、プライベートも何も知らない間柄の人物に絵を渡してくれるなんて、思いがこもっていないはずがない。何より、絵を渡すことができる人間性に、何より心を震わされた。

 

感謝を伝える行為はとてもシンプルだ。言葉で「ありがとう」と言えばいい。頭を下げたり笑顔を浮かべてもいい。いずれも尊いのは大前提として、手段に芸術を用いるのは勇気がいると思う。

芸術は好き嫌いが分かれる。その素晴らしさと恐ろしさは、以前役者を生業としていたせいで、余計に考えすぎてしまう。

否。だからわたしは芸術家に向いていなかったのだ。

芸術家とは、意志を真っ直ぐ作品にのせれる人間なのだ。

誰がどう思おうとも伝えたい。そんな前向きさが絵をくれた彼女から伝わってきた。眩しすぎて尊くて、そんな方から絵がいただけたこと自体が嬉しかった。

 

帰宅後、感化されたわたしは久々に絵を描いてみた。

ガラスペンを桃色のインクに浸して、感謝や喜びを表現しようと線を引いたり文字を書いたりした。が、絵から漂うのは「彼女みたいになりたい、なれるかも」という香ばしい承認欲求だけだった。諦めきれずに4枚ほど殴り書きを続けたが、己の矮小さが身に染み嫌になった。

 

少し時間は空くがこうして文字を書いている。手段の模倣では何も表せないと学んだ、そのことだけは残しておきたいと思って書いている。内省ばかりして自己愛が強い、わたしなのだ。