書きたい分だけ書くブログ

冗長な戯言(たわごと)をつらつらと

未熟な人間、恐怖に抵抗して生きる

東京のとある下町に訪れたことがある。まだ役者として舞台に立っていた頃だ。商店街の通りにステージをつくり、お祭りの一環でパフォーマンスをする。準備期間を含め、数日そこへ通った。5年以上前の光景なのに、わたしの意識にこびりついて離れないのは、舞台の照明や着飾った衣装や踊りの躍動感などではなく、1つのこじんまりとした店の佇まいだ。

 

そこは昔ながらの和風然とした雰囲気で、まさに舞台が設置される商店街沿いに店を構えていた。お煎餅か何かを売っていたように思う。やや暗めの照明の部屋の奥に、店員であろうおばあさんが腰かけていた。彼女は客が入るであろう玄関口の方面ではなく、空間のどこかをじっと眺めていた。店内に客はおらず、彼女のほかに店員もいない。随分前の記憶なので脳内修正がかかっているやもしれぬが、当時のわたしにはたまらなく寂しそうに思えた。

 

若き時分より「客がいない店内に店の人1人」というシチュエーションが苦手だ。母親が個人的にフリーマーケットを開いた際に「お客さん全然来なかったよ~」と話すのを聞くのもつらかった。その商店街のおばあさんも、店に常連客が訪れたり、観光客が煎餅を求めに来れば、明るく笑い、仕事に勤しむのだろう。その明るい部分だけを享受したい、店員としての仮面がはがれる時間を垣間見たくない。自分ではどうにもならない運命に耐えているような姿を見ると、こちらに何らかの責任があるような気がして鬱々としてしまう。わたしが客となり関与することで、頑なな雰囲気にいっときの潤いを与えた気分になることもできる。したらしたで偽善者めいた自分が嫌になるし、しなかったら己の行動力のなさを責めるし、何とも救いようがない。

 

その光景はあくまで、わたしが勝手に生み出した情景だ。わたしが抱える不安や怯えを、たまたまそこで営業していた煎餅屋のおばあさんに投影しただけの話。わたしが単に未熟で愚かな人間性を持つという、ただそれだけの話だ。

周りの皆から忘れられたくない、行動せず足を止める人間になりたくない。足を止めるというのは、期待をされなくなるということ、愛されなくなるということ。役者時代ののわたしは承認欲求の塊で、承認を得ることで何とか自我を保っていた。自分自身をあまりにも好きになれなくて、体が動かなくなって、結局役者はやめてしまうのだけれど。

 

役者をやめてから随分たつ。足を止める恐怖はいまだに付きまとう。程度に大小あれど、少なからず一生をかけて向き合うテーマの1つなのだろう。ただ、少しくらい立ち止まっても愛してくれる人たちはいると、以降の人生で知った。自分への嫌悪感もやや薄れてきた。行動と時間が何かを解決してくれることもある、のだろう。わたしは信じて、恐怖に抵抗してこれからも生きる。

時折、今朝のように怖い夢を見たり、疲労感が襲ったり、己の体に老いを感じるとき、どうしようもなく身がすくむときがあるけど、こうしてブログを書くのも1つの抵抗手段なのだ。未熟な人間のあがきだと思って、どうか大目に見てほしい。