独りを優しく抱きしめて
1人で行動していいんだと気づいた瞬間をよく覚えている。
あれは保険会社から転職して、IT関連の会社で働き始めた頃。
麻布十番駅、大江戸線の改札口を出て、オフィスへと地下通路を1人歩いていた時だ。
過去、劇団という温かな苗床に慣れきっており、次の就職先も仕事が肌に合わないながらも人に恵まれ、なんやかんややって来たわたしである。しかし転職してから、本来の陰気な性質が、人生の壁になっていると深く気づき始めていた。
職場での顔見知りはたくさんいるものの、どうもいい塩梅で距離感を縮めていくのが難しい。しかも当時の仕事はほとんどが1人作業ばかり。
誰かと一緒に行動することが苦手で、「仕事だから」と線引きができない「雑談」や「ランチ」がひどく不得手であった。
少し、いやかなり昔の過去の話をすると、わたしは中学受験をしたことがある。
小学校は全校で100人程という規模の小さい学校で、1度もクラス替えがなかった。
小学校を卒業したらエスカレート式に皆と同じ中学校へ上がると思っていたのだが、父親が気まぐれを発揮したのか、中学受験を勧めてきた。
その頃から何も考えていなかったわたしは、父親が言うならやってみるか、と大して勉強もせずに受験。何故か受かってしまう。 *1これがよくなかった。
中学に入ってようやく気付いたことだが、6年間のうちに「新しい友達を作る力」、つまりコミュニケーション能力を研ぎ澄まさなかった結果、初対面の人物に声をかけることすら極端に苦手になっていた。
その結果、「どうやったら浮いた存在にならないか」という些末な、しかし中学生女子には重大な問題に、3年間ずっと向き合うことになる。
中学生の頃も良い思い出はある。人生で1番声を上げて喜んだ記憶も中学校3年生だ。
しかし、誰かと一緒に行動することの安心感、そして独りの恐怖を嫌という程刻み付けられたのも、中学校であった。
IT会社の頃に話は戻る。
関係を構築する能力の欠如。妙齢の社会人としての素質の無さ。そんなことを悶々と考えながらも、大江戸線の地下通路を1人歩いていたとき。
ふと「こうして1人で行動するのもアリなんだなぁ」という思いが降ってきた。
思えば、不安なときはいつも誰かと一緒に行動していた。1人じゃ物事に立ち向かえない気がしていたから。
あの人が言うならばと、他者の意見に自ら流されていた。自分の決定に自信がないから。
脳内に考えが降ってきたとき、心細さは残るものの、体が軽くなったような気がした。羽根が生える程、天真爛漫でも自由でもないけれど。
何故あのとき、そんな考えに至ったのかは正直覚えていない。しかしあの瞬間は忘れ慣れない出来事の1つだ。
2021年の今でも、悲しいかな陰気な性質は変わっていない。生きづらさを感じることもある。しかしここまで歩いてきて思うのは、独りでいたっていいということだ。何とかなるのだ。たぶん。
コミュニケーション力はないよりあったほうがいい。それは確かだ。自分が女性だから「女性は特に」と言ってしまいたくなるけれど、女性男性問わず、きっとそうだ。
でも独りでも、自分の考えを主張して、自分なりに生きたいように生きているうちに、気づいたら誰か傍にいてくれたりするもんだ。たぶんさ。
そのとき、周りを優しく見つめられる目を持っていたいと、今は強く思う。強く強く思う。まだ自分には足りてないものだから。
独りでいる時間はそんなに悪いことではないから、ただただ優しく抱きしめてあげれたらいい。
その言葉を、中学校のわたしに伝えてあげれたらよいのにな。
ブログを書きながら思わず遠い目になる、今のわたしなのである。
*1:ちなみにこれは自慢でも何でもない。出来る人というのは受験が受かる、受からないに関わらず、将来何かしらの成果を上げることができるものだ。